芸術と技術の狭間
ここ一ヶ月、仕事もしてるが勉強をしている時間の方が多いかもしれない。映画を含むたくさんの新しい映像を見て、昔からある名作を見直し、大学院や大学のクラスに忍び込んで映像論を学び、新しい技術が映像にもたらす可能性を模索している。
その中でも特に関心を持ったのは、フィルムとデジタル媒体の将来についてだ。業界のトップの人達は、それぞれ違う意見を持っているようだが、フィルムは衰退の道を歩む一方なのは全員一致のようだ。それを証拠にコダックやフジフィルムがフィルムの生産を停止してしまった。
そもそも人類は常に技術革新の狭間に立っていると言っていい。映像業界で言えば、写真を連ねて映像が出来ることが発見されてから、大きなもので言えば、サイレント映画→トーキー映画、白黒→カラー、SFX→VFX、そしてフィルムからデジタルへの移行だろう。あえて3Dを入れなかったのは、3D映画が過半数を占めるのは現状まだ起こりえない事だからだ。
ここでいうフィルム→デジタルというのは、撮影をする時にフィルムで撮るか、デジタルで撮るかという事だ。すでにサウンドは、テープをやめていち早くデジタルになってしまったし、編集方法も上映方法も今ではデジタルに移行しているので、まだ根強く頑張っているのは撮影時の方法と保存方法だ。スピルバーグやノーランがいくらフィルムで撮り続けると言い張ったところで、僕ら若い世代がキャノンの5DやiPhoneで撮影を毎日しているのだから、もう撮影時のフィルムの使用からデジタルの移行は避けられないだろう。そしてそれが及ぼすアートへの影響も映像作家として今後撮影をする上で考慮しなければいけない。
僕の作品で言えば、今のところ「美雪の風鈴」が最後のフィルム作品となり、新作の「タイガーマスク」はデジタルで撮った。もちろん機会があればまたフィルムで撮るのも考慮するべきだと思う。
すると残されたフィルムの用途は保存方法だけとなる。デジタルで今保存している方法は30年後同じ方法で見れるとは限らないからだ。事実VHSなどのテープなど再生機器はすでになくなっているし、ハードドライブも老朽化してデータが読み取れなくなる危険性がある。しかし、フィルムは100年前撮った映像を今でも光を通せば映像を見る事が出来る。つまり今日撮った映像を100年後見れる方法が保証されているのはフィルムだけだと言う。
しかし本当にそうだろうか?僕は人類の進歩に多大な信頼をおいている。17世紀後半のニューヨークで知識人の会議が行われたときにこの都市は後100年続かないだろうと言われた。過剰な人口増加を支える食料等の運搬に必要な馬が足りなくなるという理由だ。今考えれば馬鹿げた理由だが当時の人達にしてみれば深刻な話だ。しかし人類は産業革命により、汽車を発明し、車を発明し、都市は発展し続けた。
人類は誕生より空を飛ぶのを夢見ていた。そしてついにライト兄弟が1903年に有人飛行を12秒間、成功させた。さらにその約60年後にロケットを発明し月まで飛んでった。技術の躍進は加速度を増すばかりだ。
例え50年後だろうが100年後だろうが、人類はフィルム以外に今日デジタルで撮影した映像を見る方法を見つけ出すだろう。人類にとって本当に必要なものを残す手段を発見しなかったことはなかったからだ。そしてその過程で失われる映像もたくさんある。しかし失う事も人生の必然だ。
芸術と技術は切っても切り離せない。どんな芸術であれ、前人未到の偉業を達成するために新しい技術が問われるからである。新しい技術を追求するか、それを拒み現状で満足するのか。僕は常に前者でいたいと思う。芸術も技術も学ぶ事がありすぎる。だから毎日が楽しい。
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