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プロメーテウス

先日、「プロメーテウス」を映画館で見た。久しぶりにアメリカサイズのIMAXで見るうえ、リドリースコット監督の最新作で、しかも大好きな「エイリアン」シリーズだったので、大分高揚して見に行った。まだ見てない人の為にも、なるべく内容に触れずに感想を書いてみる。

「プロメーテウス」は、期待していたSFアクション映画と全く違って、どちらかというと哲学的な嗜好の強い映画だった。典型的なハリウッド映画のように善と悪がはっきりしていなかっただけに、何が起こるのか予想出来ないという意味では面白かったが、登場人物の誰にも感情移入出来なかったので、正直あまり好きになれなかった。ただ、しばらく記憶に残るような壮絶なシーンが1シーンあったのと(見てからのお楽しみ)、見た後に大分考えさせられたという意味では見る価値のある映画だった。

映画の中では宇宙船の名前として使われている「プロメーテウス」という言葉は、もともとギリシャ神話の神々の一人で、ゼウスによって取り上げられた「火」を人類に戻したとされ、「先見の明を持つ者」の意を持つ。映画のテーマは、宇宙船の乗組員のロボット、デビットによって語られる。「人はどこから来て、どこへ行くのか?」 人類史上、常に問われ続けていた最もシンプルかつ不可思議な質問に対する問いかけが、キリスト教信者の主人公、エリザベスと無神論者のロボット、デビットによって、地球より何万光年も離れた星で繰り広げられる。

こういう「創世」がテーマの映画はそもそも日本ではあまり見かけない。あまり日本人に馴染みがないテーマだからな気がする。 聖書のヨブ記で、神はヨブに問いかける。「あなたは地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか?、、、死の門があなたにあらわれたことがあるか?」地の基を定めた時というのは、神がこの地を創造したときのことだが、要するにお前はどこからきてどこにいくのかを知っているのか?ということだ。 西欧人や中国人は、えてして人間の起原について探求し続けている気がする。一方、辺境の民である日本人は、古事記などの書物があるものの、あまり親しまれてないのは結局、始まりと終わりについてあまり関心がないからなのかもしれない。どちらかというと、始まりや終わりより過程を重視する傾向にある。その理由の一つとして、現代の日本人は宗教心がそれほど強い国ではないからだと思う。宗教には、ほぼ必ずといっていい程、人類の起原と終焉が定められているから、始まりと終わりを教えられる。

宗教の代わりに日本には「道」という考え方が浸透している。新渡戸稲造が書いた武士道もそうだが、剣道、書道、華道、柔道、何かを極める「道」という考え方で、その道には終わりがなく特に始まりも明確にあるわけではない。ただひたすら師を追い、やがて弟子に追われながら鍛錬をし続け、その道を極めようと歩き続けるという考え方だ。しかし、西洋では「頂上」を目指すという考え方が多い。そこにには「ふもと」という始まりがあり、頂上という終わりがある。この考え方の違いは、文化も含め日々の生活の中で大きく違いを感じられる。

日本をしばらく離れてから、日本に戻り長い間滞在していたからなのか、最近、辺境の民である日本人という意識が自分の中で再度芽生えてきた気がする。だからこそ、先週アメリカに戻って来た時、少し違和感があり、また小さい事で言えば、洋画の受け入れ方も大きく変化してきたと思う。例えば「プロメーテウス」の最後にロボットのデビッドはエリザベスに問いかける質問がある。昔の僕ならエリザベスの意見をすんなり同感していたのかもしれないが、今の僕には彼女よりもロボットに同感してしまっている気がする。

19歳から28歳になるまでの日々をほぼアメリカで過ごしたことは、「タイガーマスク」を制作するにあたって大きく影響を及ぼした。28歳の一年間をほぼ日本で過ごし、自分が日本人である事を再認識した事が、今後の僕の作品に大きな変化を与えることになる気がする。今年は20代最後の年。どんな映画が作れるか楽しみだ。

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